第57回 リベラルな人ほどクルマに関してはステレオタイプな批判をする

カテゴリ : その他クルマの話題 / 日時: 2006年07月26日

 

▲クルマほど建前と矛盾に満ちた商品はない。その最たるものが安全に関してだ。パロマ給湯器の事故では20人ほどが死んだと言うが、自動車事故ではいったい何人が死んでいるのだろうか。松下電器が広告を打ちまくって器具の回収をしたが、自動車メーカーはいまだに毎日死人が出る商品を作っている。しかも欠陥がないのはもちろん、正しく使っていても死亡事故が起こる商品なのだ。それを高額で売りつけるとは、ちょっと考えるとひどいことに思える。

▲株式会社金曜日が発行する「トヨタの正体」という本の中で、UFJ銀行とトヨタにのっとられたと主張するミサワホームの社長が、トヨタの奥田会長との会談で「うちは40年死人の出ない商品を作ってきたが、トヨタは何十万人も殺してきた。そんな企業風土の違う会社と組むつもりはない。文化的な価値観が違う」と言って会長を怒らせたと書いてあるが、これは自動車と言う商品の矛盾をついた発言ゆえ、会長を怒らせたのだろう。奥田会長はクルマが人を殺しているということ自体がわからなかったようだったとミサワ社長は言うが、そうではない。一番触れられたくないことを言われたので知らないように装ったのだろう。

▲コンプライアンスと言う観点でもクルマは矛盾した商品だ。高速道路は最大でも時速100kmが制限速度と法律で決まっている。しかし実際にはその倍近くの速度が出るクルマが作られ、堂々と販売されている。日本車では時速180km程度しか出せないようにする装置がメーカーによって取り付けられているわけだが、これは裏を返せばメーカー自らが確信犯的に違法な速度を商品に設定しているわけだ。時速120km程度の設定速度ならまあわからないでもないが、時速180kmというのはいくら何でも、と誰でも思う矛盾だろう。

▲そんな危険な商品を売って日本一の利益を出し、その金力でマスコミを抑え込んでいるトヨタはとんでもない企業であるというのが前述の「トヨタの正体」が書く主張のひとつだが、それはけして間違いではないと思う。確かにトヨタは安全な商品性だけを前面に押し出したクルマ作りはしていない。そこは反省すべき点があると思う。しかしながらそれらはクルマと言う商品をステレオタイプに見た場合の主張であり、もっといえばクルマを知らない人の主張だ。

▲クルマの危険性に関してはクルマが道具なのか、インフラなのかという論議を避けて通れない。道具である包丁が殺しの凶器になるように、道具は絶対的に安全なものではない。つまり道具であるクルマは使う人によって凶器になりえる。また凶器とまでいかなくても、包丁で誤って手を切るように、クルマは人をひくこともある。それは人間の使い方や偶然の事故によるわけで、道具が悪いわけではない。クルマを道具として捉えれば、安全性に関する主張は崩れると思う。使う人間次第というわけだ。

▲ただこれだけクルマが社会性をもつと、インフラとして捉えることは間違いとはいえないだろう。インフラとすれば事故は起こしてはならないし、事故を起こす可能性のある商品を売ることは間違いかもしれない。家や給湯器、暖房機というのは生活のインフラであり、ある一定の使い方をする限り、絶対に安全である必要がある。クルマをインフラと捉えると、絶対安全な道具にする必要があるとは思う。

▲ただ、そうなるとクルマは相当に使い方を制約された商品となるだろう。公共交通機関と同じようなものになるといってもいい。個人が勝手に使うことは難しいだろうし、いわゆる移動の自由はかなり制約される。クルマなど要らないと主張する人々は、公共交通機関とタクシーのような比較的自由に走る乗り物があれば、それで移動も移動の自由も確保されると考えるようだが、自由な移動というのは無駄を含めたランダムな移動であり、A地点からB地点へと単に立ち位置を変えるということではない。

▲免許を取って自分で運転し、知らない土地へ出かけたときの感動、子供が急病になったときに自らハンドルを握って病院へ送り届けられた安堵感、あるいは彼女と初めて郊外のラブホテルへ入ったときのときめき、こうしたクルマの自由の実感は実際にハンドルを握ったことのある人にしかわからないだろう。電車に乗れば旅はできるし、急病には救急車がある、ラブホテルもタクシーでいけると主張することは可能だが、道具であるクルマを自ら使ってそれを行うことにこそ、意味がある。それこそが自由であり、個人の能力の拡張ということなのだ。それを手助けするのがクルマなのである。

▲東京に住んでいる人なら公共交通機関が整備されているし、救急車もすぐくるだろう。インフラを使うことによる移動の自由はかなり確保されている。しかし、愛知県の片田舎である旧挙母町(豊田市)界隈では、自らハンドルを握らない限り移動の自由はない。日本中に旧挙母町のようなところはある。いや、それが大半だ。クルマを批判しようと思う人は何はなくともまず免許を取得して自ら運転してみてほしいと思う。そしてできれば田舎に一度住んでみてほしい。

▲安全でないものを発売すべきではないという人は、オートバイを想像してみてほしい。クルマ好きからしてもオートバイは危険な乗り物だ。あんな危険な乗り物を野放しにしていいものか、とすら思う。しかしオートバイこそ移動の自由の象徴だ。安全性はほとんど考えられていないハイリスクな機械ながら、それを承知で移動の自由だけのために乗る商品である。そしてそんな商品を作って売り、また買うことができる自由があるのはすばらしいことではないか。乗る人の「個人責任」を認めているわけで、「自立した市民」があえて自らリスクを抱えて選べるという珍しい商品だ。むろんクルマもそれに近い側面を持つ。誰もが時速180kmを出せるのだから。

▲そういう意味ではクルマ(やオートバイ)はかなりリベラルな商品と言えるだろう。安全と言う一言でがんじがらめにされ管理された移動から、リスクを伴いながらも個人を自由へ解き放つものなのだ。そういうリベラルな道具であると言うことが、リベラルを自認する人の多くにわからないのはとても悲しい気持ちになる。むろん安全に関しては更なる進化が必要であり、それはやがてITSが請け負うことになると思うのだが。

▲安全・環境、あるいは雇用問題といった観点からの自動車産業批判はあまりにステレオタイプだ。新聞を代表とするメディアは昔からそうした批判しかしてきていない。つまり運転免許のないリベラルな人ほど、クルマに関してはステレオタイプな批判をする傾向があるということだ。メーカー批判も否定はしないが、クルマに関する行政や警察の動きの批判記事を見ることはあまりに少ない。そこがちょっと残念に思えてならない。

 
 

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