第63回 グローバリズムとキリスト教って一体のもの?

カテゴリ : カルチャー,社会 / 日時: 2007年02月06日

 

▲アメリカが好きだ。私たちの世代が若者になった頃、1970年代の初めにアメリカ文化がどっと日本へ入ってきた。JICC出版(現宝島社)の月刊宝島、読売新聞の出した「メイドインUSAカタログ」、それに続く、平凡出版(現マガジンハウス)の雑誌「popeye」などによって西海岸文化がライフスタイルとして紹介されたわけだ。ロック、クルマ、バイク、ファッション、サーフィン、そしてライフスタイルなど、アメリカ文化の明るさが60年代の日本的暗さから若者を解き放した。ちょうど大学生だった我々世代はこの流れに乗り、すでに終焉を迎えていた学生運動の影響を受けることなく、大学という今に続く遊園地を満喫したのである。

▲実際にはこの時期のアメリカは、ベトナム戦争の終結を背景に社会的にはかなり厳しい状況にあったのだが、日本のお馬鹿な学生にとっては自由の国アメリカという姿しか見えていなかった。本当は相当暗い内容のイーグルス「ホテルカリフォルニア」がカリフォルニア賛歌として聴かれる中、名古屋市内の本山地区をウェストコーストに見立てた本山ウェストというタウンマップを作ったりもした。ほんの数年前、学生運動華やかな頃にはこの本山の交番を火炎瓶で襲った先輩の話も知ってはいたのだが。

▲当時の私たちは、そういう「運動」では何も変わらないことを感じていたのだと思う。自分たちがアメリカ的な「自由なライフスタイル」を確立していくことで、義理人情、実直勤勉、保守反動的な日本の社会が変わっていくのではないか、と思っていた。バイトをしていたホワイトハウスという名の喫茶店(アメリカの田舎家風の白い建物にはいつも星条旗がはためいていた)では週末にライブが行われ、駐車場の脇にはサーフショップやグッズショップが建ち並び、アフロヘアのハングライダー講師は駐車場のバンで寝泊まりしていた。日本的ではない「自由」がそこにあったのだ。

▲そんな青春時代を過ごしたゆえかアメリカに対してそう悪い印象を持っていなかったのだが、冷戦時代の終焉以降、冷戦時代よりかえってアメリカ帝国主義を強く感じ始めたのは事実。そして最近の、いわゆるアメリカ的グローバリズムは、イラク戦争にいたってもはや誰の目にも行き過ぎに映り始めているはずだ。今のアメリカは僕らの好きだった古き良き自由なアメリカではなく、格差社会が行き着いた「自由という概念を守る」ために世界を侵略する保守的な国になってしまったように思う。

▲若い頃アメリカ文化に侵略された私だが、宗教だけはキリスト教にはならなかった。こうして今、いろいろ考えてみると私にとっては仏教の方が居心地がいい。そうした様々な宗教を多様な文化として許すのが本来のアメリカだと思うのだが、イスラム教圏への執拗な攻撃を見る限り、アメリカ文化=自由主義経済=キリスト教という図式はどうやら譲れないところへ来ているかのように見える。第二次大戦後アメリカが日本をうまく治められたのは、東西対立の激化もあったにせよ、日本人が宗教に対して比較的鷹揚だったからだろう。神道仏教キリスト教なんでもごっちゃで大丈夫、実は一心に信じるものはないという日本人の懐の広さが幸いしたわけだ。しかし世界は違う。

▲アメリカのグローバリズムとキリスト教は一体のものかもしれない。欧米は大半がキリスト教圏だが、それ以外の地域ではそうはいかない。中国など共産主義が一種の宗教のようなものだし。となればアメリカとしてはなんとか日本を含めた非キリスト教諸国へ、キリスト教をじわじわと広めていきたいと思っているはず。最近大々的に広告展開されて話題となったアーサーS.デモス財団のキリスト教書籍「パワー・フォー・リビング」などは、そういう意図を持った布石の一つなのではないだろうか。特にカルトでもないと言われるこの財団がこれだけのお金をかけて行うからには、その背景に何らの意志もないとはいえないように感じる。

▲こうして考えると政教分離が一番できていない国は、実はアメリカなのかもしれない。ひるがえって日本人は大半の人が無宗教でも大丈夫。昨年、無宗派葬をやったことはここで書いたが、例え仏式の葬式をやったとしても、その人が仏教徒である可能性は限りなく低いのが日本の現状だ。こうなると無宗教のままでも死ぬことのできる日本人の精神構造を研究することで、もしかすると世界平和が達成できるのでは、とすら思えてくるのだ。

 
 

月別一覧

 

現在の位置:ホーム > 編集長コラム 水野誠志朗'sトーク > グローバリズムとキリスト教って一体のもの?